Point1カラダを動かし遊ぶことが大好きだった幼少期

山口県山口市という田舎に産まれ、
家の回りは田んぼ、山、川など自然溢れる環境にいたので、いつも弟や友だちと砂だらけ泥だらけになって遊んで育ちました。

また、通っていた保育園、幼稚園では体を動かすことに力を入れていたこともあり、剣道や水泳、マラソンなどスポーツに触れる機会も多く、

運動行事では常に裸足で駆けまわり、冬には上半身裸になって乾布摩擦などの行事を行う環境のなかで幼少期を過ごしました。

Point2スポーツや習い事に没頭していた小学時代

小学校からは水泳や習字、野球を習い始めて、何とか卒業するまで続けてました。

なかでも3年生から始めた少年野球は初めての球技で、”上手に投げられるようになった”、”守備ができるようになった”、”遠くに球を飛ばせるようになった”などの出来なかったプレーが出来るようになることが楽しくて仕方ありませんでした。

たいして強くもなく優勝もしたことも記憶に無いチームでしが、スポーツの楽しさを純粋に知ることができた小学時代でした。

Point3中学・高校では陸上競技に打ち込む

少年野球等に没頭していた小学時代でしたが、ふと小学校体育の授業の延長上で出場した陸上競技大会の走高跳で入賞したことをキッカケに個人競技の面白さに目覚め、団体競技から一転して中学からは陸上競技を始めました。

練習でコツを掴むたびに記録が伸びるのが楽しく、
指導していただいた先生のおかげもあり、みるみる成績も上がったことで陸上競技の強い地元の高校に進学しました。

高校では主将を任され、インターハイや国体出場に向けて仲間とともに切磋琢磨したことは良い思い出です。

高校での走高跳最高記録は1m95cm(出身高校の陸上部HPサイトでは歴代4位の記録でした)まで伸びましたが、国体への出場予選の結果は2位、県大会ではいつも2位か3位でなかなか優勝はできず、インターハイ出場を決める大会でもあと一歩順位が届かず悔しい思いも経験しました。

実力不足や知識不足は言うまでもないですが、怪我などにも悩まされ、スポーツの厳しさや現実も知ることとなりました。

今となってはそれも楽しかったと思える糧となっています。

Point4陸上競技での挫折がトレーニング、体について学ぶキッカケに

怪我に悩まされた競技生活であったことが、体について学ぶきっかけとなりました。インターハイ(全国大会)に行けなかった過程にやり残した悔しさも大きく影響したと思います。

競技生活中は、競技練習ばかりで体づくりなどのトレーニングに触れる機会はほとんどありませんでした。

特に体づくりのひとつである筋トレに関して当時は、

『カラダが硬くなる・背が伸びなくなる・重くて動けなくなる』からやってはいけないことと聞かされていました。(現在のスポーツ現場でもよく聞くことなんです…)

今でこそ筋トレにまつわる間違った認識、迷信だと理解できますが、知識不足の当時の私は思い切りそのことを信じていて、取り組んでいた走高跳は身長が高い方が有利になりやすい競技ということも影響していたので、そんなデメリットがあるならやらないと入部から3年生の直前まで筋トレに関しては一切やりませんでした。

なので、フィジカルはとても弱かったです。

ところがより専門の先生が赴任されてきてすぐに筋トレはやるべきことと教えられ、エビデンス的にはメリットの方が大きいということを理論的に説明していただき衝撃を覚えたのを記憶しています。
そこから体づくりとして筋トレを始めました。

筋トレによって少しづつ強くなっていく楽しさとコンディションが整っていく良い感覚を掴めてきていましたが、始めたタイミングが高校3年生になる4月直前。インターハイ予選が始まるのは5月下旬。当然1ヶ月ちょっとで劇的な効果があらわれる訳もなく悔しい結果となり、私の陸上競技人生は終了となりました。

同級生がインターハイで活躍するなか、自分はすることなく家にいる状況にしばらくは落ち込んでいました。

やり残したトレーニングの後悔も含めて、

『もっと早くからリバビリやトレーニングを始めていれば…』

これがいわゆる挫折なのかなと感じていました。

陸上競技をもう大学等で続ける意志もすでに無く、進学するより就職しようと準備を進めていました。

ですが、夏休みにちょっと気になっていたスポーツ医療系の専門学校のオープンキャンパスに行ったことで、

『正しい知識を自分から得ることができていれば何か変わっていたかもしれない』

『カラダのことやトレーニングについて知りたい』

という思いがでてきたことで福岡県の専門学校への進学を決めました。

Point5様々な刺激を受けた専門学校時代

専門学校ではスポーツ科学科に属してトレーナーを養成するコースで学びました。
それと同時に初めての一人暮らしで、生活に慣れるまではとまどいの連続で親の大変さやありがたみをとても感じていた頃でした。

学校での活動はオーストラリアへ海外研修に行ったり、スポーツ現場の経験豊富な先生方に学んだり、競技エアロビクスの大会に挑んだり、色々なボランティアやイベントに参加したりなど多くの経験をすることができました。

そのなかでも、夏休みに出身高校である陸上部へスクールトレーナーとして伺いスポーツトレーナーとして活動するという実習が自分の方向性を決める大きな経験でした。

スポーツの現場で後輩である選手たちと触れ合い、学んできたことを通して指導させていただたことで、
「自分自身の高校時代のようなフィジカル面で苦労する選手を減らして行きたい」、

「成長期に必要な体づくりと競技力向上のためのトレーニングの提供によって競技生活をより充実した豊かなものにして欲しい」

と思うようになったこと、

指導者である先生方の選手への真剣な姿勢も学ばせていただいたことがスポーツトレーナーの道へ進みたいと強く思う大きな転機となりました。

また、専門学校時代も仲間に恵まれ、遊びも学びも楽しく充実した時間を過ごすことができました。

一緒に過ごした仲間は現在、経営者になっていたり、予約の取りづらい人気のパーソナルトレーナーになっていたり、地元に根付いた整骨院の院長になっていたりとそれぞれの得意分野で活動していて、今でも繋がりがあり良い刺激をもらっています。

Point6スポーツトレーナーとして就職

専門学校を無事に卒業して地元の山口県にあったスポーツトレーナーとして働ける会社に就職しました。元々、私の出身高校であるサッカー部のトレーニング指導を担当していた会社でした。全国各地の中学生や高校生チームを対象に現地に赴き、体づくりを専門にトレーニング指導している会社でしたので私にとっては嬉しい環境でした。

その会社で体づくりの筋トレの基本や競技スポーツにおける筋トレのノウハウを叩き込まれました。特に当時のチーフトレーナーには感謝しても仕切れないくらい沢山の事を教えていただき、今でもその教えが現場で活きています。

また、各地のスポーツ現場を担当するトレーナー陣が研修で集まると、朝までトレーニング指導についてや各地区の情報などを熱く語り合ったりしていました。

初めは指導するチームとの契約を取るまでに5ヶ月近くかかりましたが、徐々に増えていき九州地区、中国地区を中心に活動の場を広げ、のちに会社の意向で譲り受けたチームも含めて東海、近畿、北信越地区で本格的にスポーツトレーナーとして活動を広げて多くの高校生チームの体づくりのサポートをさせていただきました。

また、選手やチームの見本になるようなトレーナーになるため、入社から自身の体作りもより本格的にスタートしました。筋トレを始めた高校3年生当初は身長183cmで60kgないくらいガリガリだった体型が、専門学校で少し成長し、入社から約2年ほどで80kgを超える体になり、自分でも驚くほど変化、成長していきました。久しぶりに会った友達からは色々な意味で体どうしたの?とか、どこ目指してるの?なんて言われましたが、こんなガリガリだった自分でも変われるという大きな自信がついた時期でもありました。

沢山の現場経験を積み上げていき活動3年を超える頃には、1対数十人から100人を超える選手のグループトレーニング指導にも自信がつき、5年目を迎えるにあたり新しいチャレンジをするために信頼できる仲間と独立することを決意しました。

Point72009年独立 仲間と共にトレーナーズベースを設立

退社後独立して、仲間5人とトレーナーズベースとして活動をスタートしたのが、2009年11月、24歳の時でした。

これまでのノウハウはあるものの、当時、新規チームと契約ができるのか、きちんと集客ができるのか、独立にあたり色々な手続きに追われ、独立して仕事をしていくことの厳しさが「こんなにも大変なのか…」と痛感させられたのを覚えています。

また、トレーニング指導や内容についてこれまで以上に自分にできること何だろう、選手やチームに提供できる価値はあるのだろうかと思い悩む時も多くありました。

ですが、これまでお世話になっていたチーム、監督さんを含めたスタッフの方々から沢山のお声がけをいただき、力を貸していただいたおかげで新たな契約も増え無事軌道に乗ることができました。

現在では10数チーム様とトレーニング指導契約を継続させていただいており、なかには会社にいた時代の時から今日に至るまで15〜17年間契約が続いているチームもあります。
選手たちやチーム関係者の皆さんと同じ目標に向けて高め合えること、良好な関係を続けることができる幸せとこの仕事の楽しさを常日頃から実感しています。

Point8選手たち(人)の成長を見られることが楽しい

“できなかったことができるようになった”

“感じられなかったものが感じられるようになった”

“見えなかったものが見えるようになった”

競技練習や体づくりのトレーニングはもちろん、チームの監督やスタッフさんの誠意ある指導により、挨拶や言葉遣い、コミュニケーション能力の向上、相手の気持ちを慮る優しさなど、

関わらせていただいている選手たちがアスリートとしてだけでなく人として成長していく過程を数年かけて見られること、目標に向けて時間を共有して関わることができるとても楽しい仕事です。

卒業して社会人になっても成長した姿で会いにきてくれたりもするんです。

競技スポーツなので、当然、勝ち負けや競争がつきものですが、そこだけの至上主義に捉われず、一生懸命努力し成長していく選手たちの姿勢にいつも学ばされ元気をもらっています。

私にできることは、選手たちの競技人生が豊かで充実したものになるようなトレーニング指導をブラッシュアップしながら提供して、少しでも成長に関わっていけたらと思っています。

Point9パーソナルトレーナーとしての活動を始めるキッカケ

スポーツトレーナーとしての活動現場では中高生の選手たち1対何十人、時には100人を超えるグループレッスンを行なっておりますが、

お客さまと1対1で向き合うパーソナルトレーナーとして役に立ちたいと思ったキッカケというのが2つあります。

1つ目は同世代の30代からその上の世代でお世話になっている方々から、

“引き締まったカラダにするにどうしたらいい?”
“いつまでも綺麗でカッコよくいるにはどうしたらいい?”
“動けるカラダで趣味をアクティブに楽しみたい”

など、体のお悩みについて相談される機会が増えてきたことでした。

二つ目は私の妻からの要望がありダイエット、ボディメイクをスポーツトレーナーとして培ったノウハウをアレンジしてエクササイズ指導をしたことです。

年齢による体力の衰えや代謝の低下を実感しており、何より”ボディラインの崩れを改善したい”、”子どもたちに誇れるママでありたい”という要望からでした。

方針としては無理なく短時間での筋トレと過度な糖質・食事制限は無しで、期間を3ヶ月間と設定して行いました。妻の努力と継続した結果、−6kgの減量に成功してくれました。(パートナーがトレーナーっていうのはプレッシャーだったみたいです。)

妻本人もウエストやお尻周りがスッキリしボディラインが変化し体も動くようになったことにすごく喜んでくれました。

ですが、それ以上に妻の友人やまわりの方の

“痩せて綺麗になったね”
“どんなことしてたの?”

という反響もあり驚き嬉しくなりました。

これらのことがキッカケとなり
日々一生懸命ながらも自分を磨くことを諦めない女性のための

「しなやかな曲線美を描く綺麗なボディライン」を作る
パーソナルトレーナーとして活動をしています。

パーソナルトレーナーはお客さまと1対1で向き合い、お客さまの健康面や美容面などの体のお悩みをコミュニケーションをとりながらエクササイズ指導を行いサポートします。これから、より個人の深くにアプローチして喜んでいただけるよう精進していきます。

Point10トレーナーとしての目標

「体づくりで困ったことがあれば私(藤井)に相談したらいいよ」

「あの人のトレーニング凄いキツイけど、凄く楽しいよ」

「あの人(藤井)に会うと何か元気が出るよ」

このように言ってもらえるような頼りになる存在になりたいです。

ただダイエットする、

ただボディメイクする、

ただスポーツの競技力をあげる、

ただ筋肉をつける

というためでだけでなく、それが成功した先にある本当の夢や願望を共有し想いをカタチにできるようお客さまに寄り添っていきたいと思っています。

関わる人の人生を体づくりで少しでも豊かにできるトレーナーに、人間になれるよう成長していくことが目標です。

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